場末のLOHAS

反抗期の宇宙人。酸素が薄くなってきた。ネオハッピーを探して

草原的愚痴

誰かに認められることを望んでいていて、それが大学の時フィットした。勉強も、本を読むことも、ハマるとずっと読めるし、生活には不向きな代わりにアイディアホッピングだったから余計、制作計画にハマった。でも怖い、一歩が。制作すること、思考することが、とてもとても好きだから。3年ブランクを、プライドが許さない。脂肪みたいに承認欲求が膨れ上がってる、毎日。

幼少期、といっても4.5歳〜くらいの時母が育児鬱で寝たっきり、わたしの承認欲求は行き場がなく、保育園で書いた絵も、初めて描いた漫画も、興味を示されず自分でビリビリに破いた記憶がある。その後も母は「ご飯を作ったら寝る人」だった。今思えば軽いネグレクトで、唯一の救いは兄だった。だから兄が好きだった。 ブラコンっていう意味で。兄1つ上の年子で、私とは違い人付き合いもうまく、今は4人家族の主人である。凄いね。頑張れ兄。

父は小学校まで、介護職をしていたから夜勤も多く、よく仕事を持ち帰っていた。私の誕生日に、家族4人並んだ真ん中にケーキがあって、その最中も、父が不機嫌に仕事をしていたのをらよく思い出す。父は、キレるとすぐ食器を投げつけて割っていた。

シンクに向かって食器を投げた時は、成長したんだなぁ、とさえおもった。

小学校まで住んでいた家の引越しの際、傷跡の残ったドアだけは、修復できなかった。 

 

小学校上級生の頃は、私と兄の喧嘩(リビングの領土問題)がうるさくてキレて、父は私のおでこにコップを投げつけて、救急車騒ぎになった。おでこに15針縫う結果になった。治すために大学病院に何度も通い、結果中学に上がるまでおでこには傷跡を隠す為(というか傷跡を縮める為)のテープを貼っていた。テープが茶色かったのと、父親が犯した事が恥ずかしかったので、「食器棚から取ろうとしたコップが落ちてきた」程にして、「なんでテープ貼ってんの?」って沢山の人に聞かれたから、けがしたから「ガムテープ貼ってる」って答えてた。

母の誕生日にはみんなでパジャマを買いに行くのが恒例行事だった。鬱は、5年くらい続いた。

私は事あるごとに父を憎み、いつでもDVで訴える証拠は取っておいた。

コップを投げつけられて顔面血だらけの私が「警察に連絡してやる」と家に備え付けられた電話の受話器を持って騒いだときの事。兄が、父が逮捕されるの?ってひどく泣いてたからやめた。

事あるごとに、「女の子の顔に傷をつけた父」として脅している。そうすると多少のことは黙る。

私の家は全員ADHDだから、キレやすかったり意思疎通がうまくいかなかったり、8(6だっけ?)の倍数で精神年齢が低い。私が産まれた時、父は25歳だった。今はもう48歳。孫も2人、いぬも1匹いて、大きいくまさんみたいに沸点が高くなった。

父は教会と牧師(現在鬱)さんを支えるまでの、本気のクリスチャンだ。父なりに悩みがあったのだろうと今は思う。

 

草原みたいな愚痴になってしまった。ただの。

 

今私が鬱になって実家にて、セルフネグレクト防止のため、家事などのリハビリ生活(あと犬のお世話)をしている。そこで初めてくらいに平穏に父と2人で話せるようになった。躁状態のせいかもしれないけれど。この「病気で修復される家族」というありきたりなテーマで1本、日本は映画撮ってそうだな。興味ないのだけどね。最近はおのぼりさん物語が面白かった。

 

他人からの承認欲求は、諦めた。

私は私の実力で最強になるしかない。というか私は最高に面白い。他人には決められたくねぇですね。